その日のことは、今でも良く覚えています。確か、私が財団ヤマハの専属プレイヤーになって、先輩達の仲間入りをするということで、ヤマハの方たちが、お披露目会のような場所を設けていただき、その二次会で六本木に繰り出し「セカンド・ハウス」にいくことになりました。そのお店にはいると、既に大野雄二氏はたくさんの方たちと飲んでいらして、もちろん私は、初対面ですが当時(というか、子供の頃から!!)私は「JAZZ狂」でしたので、JAZZ専門誌「スウイング・ジャーナル」などで、大野さんのお顔は存じてましたし(ピアノ投票部門で何位かな?とか・・笑)から、すぐにわかりました。ヤマハの方たちは、大野さんを良く知っているようで、しばらくしたら大野さんが「この人はだ〜れ?」といって、こちらの席に、わざわざ来てくださいました。もう、私は、「ナマ、大野雄二」氏が目の前にいるので、舞い上がってしまい、言いたいことが山ほど有るし、「私は、以前からこんなにあなたのファンだったのです」と、いうことをうまく伝えられなくて、いきなり、すごく生意気なことを言い出してしまったのです。「大野さんのアレンジは、たとえ3管しかホーンセクションがいなくても、まるでもっともっと沢山人数がいるように聞こえて、すばらしい。やはりそれは、センスがいいからだ・・」みたいなことを、初対面のしかも大先輩に向かって、小生意気なツッパリ娘は、言ってしまったようです(その時は、舞い上がってて、何を言ったか良く覚えてないのです・・・。が、後でスタッフに怒られました・・・笑)
ただ、その時、私は大野さんが慶応の三羽ガラス(大野雄二、佐藤允彦、鈴木”コルゲン”宏昌氏は、慶応大学を代表する三大ジャズピアニストとして、有名だった)だったことや熱海の「大野屋」という 、ローマ風呂で有名な温泉宿の息子さんだということ(笑)や、日本テレビの当時は「火曜日の女」(土曜日の女)現(火曜サスペンス劇場)などの、劇伴をずっとやってらしたこと、後、石立鉄男さんのドラ マ「みずもれ甲介」「パパと呼ばないで」そして、もちろん「ルパン3世」「人間の証明」「犬 神家の一族」etc。また、私が小学生の頃に聞いていたFMの番組でパーソナリティーを大野さんがしていたことなど、たぶん、相当のマニアじゃないと、知らないはずの情報を私は知っていたので(笑)大野さんにも、少しは私のフリーク度が、わかっていただけたかな?とも思っていました。そんな、私にとっては劇的な偶然の出会いがありました。
そして、その後ヤマハの方々の計らいで、その頃のヤマハの女性エレクトーンプレイヤー達8名ほどで、1年間、大野さんのレッスンを、月に1回受けることになります。もう、私は嬉しくて、こんな事が起きて良いのかと思うほど(神に感謝!!)偶然から始まった、大野さんとの出会いは、私にとっては願ってもない機会となりました。レッスンはオリジナルの曲を各自が、書いてきてアドバイスを頂いたり、目の前で大野さんの弾くピアノを見て、教えて貰うというより「盗む」というカンジ(そんな、もちろん、手取り足取りなんて教えてくれない・・・。こちらも一応プロでしたから・・・)でした。 そして、その1年間のレッスンの卒業コンサートということで、初めてスタジオ・ミュージシャンという方々と同じステージに立って演奏する事になり、ドラムスに「市原康」さん,ベース「ミッチー長岡」さん、ギター「直居隆雄」さん、ラテンパーカッション「ペペ・穴井」さん、そしてピアノはもちろん「大野雄二」さんに、私たちの作曲・編曲したオリジナルを、銀座「ヤクルトホール」でやることになります。とにかく、びっくりしたのは、その時初めてスタジオ・ミュージシャンという方と、一緒に演奏したわけですが、今まで、こんなにリズムがやりやすくて、気持ちよくて・・・、 とにかく全然違ってたのです。もちろん、い ままでもリズムセクションと一緒にやることはありましたが、とに かく全然違う!! リズムが「タイト」で「音色」が良くて「フレーズ」が格好良くて、落ち着いた「大人」で、etc・・・。そ〜か〜・・・・・スタジオ・ミュージシャンて〜、こんなに「うまい」んだぁ〜・・・・・と。この時の感覚が、ずっと忘れられませんでした。
また、この頃良く大野さんのバンド「You & Explosion」のライブにも、よく通ってて、六本木の「バレンタイン」という、当時は「トミー」さんというオーナー(私の事を、知っててくれてたの「いつもテレビでみてるよエリコちゃ〜ん」・・って) が、やっていたライブハウスで、その頃そのバンドは、大野さんのオリジナルをやっていて、メンバーは市原さん、ミッチーさん、ギターが、萩谷さん、ラテンが鳴島さん、SAXがジェイクさんで、トランペットが数原さん、フルートが中川昌己さんでした。この時も、まじかでミュージシャンを見て聴いて、メチャ憧れてたです。そして、そんなこんなで、大野さんのレッスンが終了する頃には、なんとなく大野さんも、私の事をわかってくださったみたいで(?・・たぶん、生意気だったから・・・笑)この頃から、大野さんのスタジオの録音の時に、遊びに行かせて貰うことが多くなりました。初めてレコーディング・スタジオというところに行ったとき、確か大野さんのCM音楽のレコーディングだったと思いますが、スタジオから流れる音を聴いて「なんて、いい音なんだろう・・・」と、まず思いました。バランスが良くて、音質が良くて、演奏が良くて、曲も良くて・・・。なんてクォリティーが高い「環境」なんだろうと、またまた生意気なこと を感じてしまったのです。そして、サブ(調 整室)に流れる、あの独特の緊張感、厳しい真剣な「プロ」達の集まる現場が、そこ にはありました。そして、緊張が解けると、いつもの冗談を言い合うミュージシャンと、業界人にもどるかんじ・・・。
こんな風に何回か、大野さんのスタジオ・ワークを見ている間に、私もこんな「いい音」のする、こんな「いい環境」の現場で、自分が作曲して、編曲した曲を「すばらいくウマイ」スタジオ・ミュージシャンの人たちに演奏して貰えて、それが形に残っていったら、どんなにいいかなぁ〜・・・と思うようになりました。(そのすばらく「いい音」を作っていた人が、当時、ほとんど大野さんの録音に関わっていたレコーディング・エンジニアの「伊予部(いよべ)富治」さんです。 その頃、伊予部さんの後ろ姿を、私はスタジオの隅からじっと見つめていましたが・・・。現在、私が、このホームページを始めようと思うきっかけになったのは、伊予部さんのHPの中の「音らんだむ・メモランダム」という、コラムを読んで感激したからです。←伊予部さんは、今も昔も、私を知らないでしょうし、このことも知らないと思います・・・)
この頃私は、もちろん簡単なヘッドアレンジや作曲も仕事としてやってはいましたが、そのレベルとなると、音楽的にも何もわかっていなかったですし、自分が、将来スタジオ・アレンジャーになれるとも、思っていませんでした。たぶん、その道のりは遠いだろうし、ましてや女の私には、夢のまた夢だったのです。そんな漠然とした思いのまま、ヤマハでの仕事は続いていました。が、そんなこんなで、大野さんが、当時ヤマハではトップ・プレイヤーだった「松田昌」さん(大野さんと松田さんとのコラボレイション・アルバム「サイレント・ダイアローグ」(キャニオン) で、大野さんはプロデュースをしていて、松 田さんとは当時とても、懇意にしてました)に、私を紹介してくれました。
松田さんは、芸大作曲科にいた方ですが、ポピュラーにも精通してらして、バンド形式のお仕事が多くて、大野さんが松田さんに「この人は(私のこと)、クラッシック出じゃないし、JAZZや黒っぽいのが得意だから、ステージは「地味」になるかもしれないけど、なかなかだよ・・」といって、私を松田さんに、推薦してくれました。それから、約6〜7年の間<ベアーズ>という松田さんのフュージョン・ジャズ系バンドでピアノを弾かせて貰うことになります。とは言う物の、ちゃんと、ピアノをまじめに勉強していない私は、いきなりバンドのリハーサルでは、チック・コリアの「スペイン」やブレッカーの「サムスカンク・ファンク」とかをやらされるので、この時期も、朝から晩 まで本気で一日中ピアノを練習していた覚えがあります。テレビなどの仕事が多かったので、少しおろそかになっていた本業(?笑)をこの時期に、再び初心に返るというか「本当は、こういうことを私はやりたかったんだと!!」本格派に戻るきっかけを作ってもらいました。大野さんのところで習ってきたJAZZサウンドやアドリブも発揮できましたし、実践を毎日やれるという、この上なく楽しい自分の好きな事を現実にやれる「バンド」という形が何年か続きます。そして、この頃から、だんだんとエレクトーンを弾く機会が減って(松田さん達が、そのように持っていってくれてたのもあります、感謝!!)私の、キーボーディストへの転換の時期になっていきます。
それと同時に、バンドの中の何曲かも、私が書かせて貰い、作曲・編曲なども多くなってきていました。ベアーズのバンドの頃は、やはり「旅」の仕事がほとんどで、メンバーと日本全国ほとんどの都市に は行きましたし、当時まだ「お嬢さん」(笑)だった私は、バンドのメンバーには、ホントたくさん、いろいろなことも教わりました。<ベアーズ>の初代のメンバーは、ドラムス「井上広基」 (元、因幡晃、ダ・カーポ、さだまさしetc...) ベースが「小平幸雄」 (元、バーニング・ウエイブ、サンバーストetc...) ギターが「唐木祐二」ラテンパーカッション「アンディ・檜山」 (元、八神純子etc...)、 その後、ドラムスが「永田敬一」 (元、スクエアetc...) ギターが「藤本たかゆき」そして、キーボードが私とリーダーの「松田昌」さん、というかんじでした。この頃は、とにかく弾きたくて弾きたくて、また、何でも、どこでも、ピアノを弾くことが楽しくてしょうがなかったので、いろんな方たちとのセッションのようなことは、たくさんしていました。SAXの「佐藤達哉」さん(この頃は、まだ早稲田の学生さんでブレッカーの曲ばかりやっていたけど、超練習スゴイ人で、夜中も公園とかで吹いてた)のバンドや、さだまさしさんのバックバンド「亀山社中」の方々のインストバンドで弾かせてもらったり、etc...
ただ、私は、ライブな場所での演奏は、好きでしたが、何年か経ってやはり、また少し何かが違うなと思い始めてもいました。「旅」が多くて、しかもステージなど、自分が人前に出て、見られて緊張することのストレスや、自分の曲ではない曲を、演奏しているときに「このアレンジ、私ならば、こうするのにな・・・」とか、「こんなヘッドアレンジじゃなくて、もっと、ちゃんとアレンジされてれば・・」とか「曲が、もっと良い曲ならば・・・、演奏も生きてくるのにナァ〜、アドリブだけ、すごくても・・・」「このコンサート全体の曲の並びや、選曲がつまらないなぁ〜・・・」というような、自分が、あるパート(部分)の一つとしての役割でいることが、なんか違うな・・・と思うようになってきたのです。
この時期に前後して「YAMAHA」を離れ、フリーのキーボーディストとして活動していた私は、ある日、以前、私のアルバムを出させて頂いた、東芝EMIの当時のプロデューサー「佐藤方紀」さんのレコーディング・スタジオに遊びに行くことになりました。丁度、佐藤さんは録音中で、私は久しぶりに東芝のスタジオのソファで、その録音を見学させて貰っていました。
そして、その時、佐藤方紀さんに、突然こう言われたのです。「ね〜、塚山さん、あなたもアレンジやってみない?生楽器を使って自分で曲を書いて、自分でアレンジして。ちょうど今、2曲ほど、作家さんが決まってない曲があるんだけど・・・どう、やってみない?」と言われました。
私は「やったぁ〜〜!」と心の中で思い、飛び上がって(心の中で・笑)喜んだことを、今でもはっきり覚えています。
こんな風に、私の作家としてのスタジオ・ワークのチャンスがやってきます。スタジオ・アレンジャーデビューの曲は、「坂田おさむ」さんと「森みゆき」さんに唄ってもらった「星の子サンバ」と言う曲と、「一城みゆ希」さんに唄って貰った「ふくろう親子の汽車ポッポ」という、子供向けのダンスの曲でした。
このレコーディングは、編成が5リズムに、ホーンセクションが7名、もう一曲は、ストリングス・セクションが4+4+2+2に、ハープまで有りという、デビューにしては豪華な編成で曲をかけることになりました。生の管楽器のセクションや、ストリングス・セクションなんて、今までアレンジしたことなんて無い私にとって、このチャンスは夢のような出来事でした。録音当日には、生まれて初めて「指揮」まですることになった私の前には、あのドラムスの「市原康」さんや、ラテン・パーカッションの「鳴島さん」、ホーン・セクションには、「数原晋」さんや「村岡建」さん、トロンボーンの「チャンピョン新井」さんもいました。まさに、ずっと思い続けていた「作家」になる夢が、このとき本当に叶ったのでした・・・・・・・。
今、この「星の子サンバ」と言う曲を聞き返してみると・・・・・
私らしい、自分の音楽の原点があるように、ウン十年も経った今でもそう感じます。
小さな頃から、積み重なったいろんな事が、この曲には集約されてるような気がします。
気が付くと、私はプレイヤーだった時代よりも、作・編曲家としてやってきた年月の方が、長くなりました。ここまで、自分の好きな職業を続けられて、感謝の気持ちでいっぱいです。
これからも、こんな風に、すべてが新鮮で、刺激的だった頃の気持ちを持ち続けて、今まで以上に自分らしいサウンドを、突き進めていきたいと思っています。
長くなってしまいましたが、私は、このBiography「自分史」を、どうしても書き残したくて、ホームページを作り始めた気がします。
最後まで、読んでくださった方、本当にどうもありがとう・・・・塚山エリコ