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 Eriko's Biography


 幼少時代

私が生まれたのは,東京の世田谷区桜という、昔は路面電車が走っていた、世田谷線の「上町」の近くでした。そこは、私の母の実家なのですが、私の祖父も祖母も、今でいう東京芸大をでて、音楽の教師をしていました。祖母は、家ではクラッシックのピアノも教えていました。そして、私の母親の兄、私の伯父は(窪田 基と申します)やはり、芸大のコントラバス科を卒業して、NHK交響楽団に長年在籍し、首席を勤めていました。その後、国立音楽大学や、山形大学の教授をしていました。母の一番下の妹(小澤智子と、申します)も、芸大のチェロ科を卒業して演奏家として活動をしていました。

今になって良く考えると、「ドッ」が付くぐらいの、クラッシック系の環境の中で私は生まれたのですが、物心ついたときには、ポピュラ−音楽をやっていました。なぜ、私がこれほどの環境の中、クラッシックの世界に進まなかったのかを今になって考えてみると・・・

私が幼い頃に、大好きだった「おば〜あちゃん」の家にへ遊びに行くと、祖母のピアノのレッスンを受けに、順番に生徒さんが来るのを、良く見て聞いていました。その印象は、とにかく きびしい 「 おけいこ」という、記憶があり ( おばあちゃん特に、昔の人ですから・・・ 笑 )の、とっても、きびしい「おけいこ」を普通の人以上に間近で見ていた幼い私の心の中には、「クラッシック=イコ−ル、恐くて厳しいレッスン」という、イメ−ジがずっとありました。

そんな、母方の環境に対して、私の父親は 外交官 だった 祖父と共に 、 世界各国を 船で 移動する という 幼少期を 過ごしたようで す 。 その グローバルな 影響から 英語力を 生かして、 在日米軍の基地に勤めていました。今は閉鎖された、府中基地や、横田基地、厚木基地などで、エレクトロニクス関係のエンジニアをしていました。治外法権の米軍基地という空間の中で、たくさんの外人さんたちと一緒に「アメリカ」という空気に包まれて仕事をしていました。 私の 自宅には、 洋楽の LP を 持って 良く 軍の 関係者が 遊びに来ていたのを 思い出します。

ですから、私が、20才まで育った立川の家(その頃はまだ、立川基地もありました)では、大きな、スピ−カ−から、母の好きなクラッシックの「ラフマニノフ」や、「チャイコフスキ−」が流れているかと思えば、父が朝、仕事に出かける前に必ず聴いていた、「FEN放送」(米軍基地の兵隊さんたちのために流れている、すべて、英語のラジオ放送)から、流れてくる、アメリカのジャズや、ロックや、ブル−スなどを聴いて私は育ったわけです。そして、血筋としては、母親方の音楽的環境を、そしてたぶん、後天的な意味では、父親の影響「アメリカ」という文化が、物心付く頃までの、私の心と、身体のなかに染み込んでいった、幼少時代だったような気がします。 







 Eriko's Biography


 小学生〜中学生時代

そんなわけで、私の母も「ドレミ」の判る人だったので、特によそにピアノを習いに行ったりもせずに(家にはオルガンがあり、いちお「ソナチネ」や「バイエル」とかもやりましたが・・・笑)小学校では、ブラスバンド部に所属し(でも、なぜか、アコ−ディオンとか、あったなぁ〜?)なんとなく音楽には、接してはいるものの・・・といった状態でした。

それが、ある日、家族で食事をしていたとき、確かあれは、土曜日の夜7時くらいからやっていた、「西郷輝彦」さん(懐かしい〜)が、司会をしていた「YAMAHA(ヤマハ)」が、提供のテレビ番組のなかで、丁度、クリスマスの時期だったのですが、小さな女の子が「エレクト−ン」(電子オルガン)で、忘れもしない「赤鼻のトナカイさん」を弾いていて、曲中の、♪〜レミソラシシシ・ドドシラソファレ〜のメロディ−の部分を、ナ・なんと、エレクト−ンの左足のベ−スで、「ベ−スソロ」をしていたのです。その、かっこよさに惹かれてぜったい、習いた〜いと思ってしまいました。まだ、その時代は「エレクト−ン」という楽器もそれほど、皆も知らなくて、しかも、習っている人なんて、あまりいなくて、でも、今までにない「ポピュラ−音楽」をひとりで、やれるという、新しい楽器だったのです。

それがきっかけで、私は、当時、立川の駅前に合った「ヤマハ音楽教室立川センタ−」に、生まれて初めて正式なレッスンというものを、受けに行くことになったのです。私、小学校5年生の2月でした。一番初めに、教えていただくことになった先生は「津金先生」という、とっても、ハンサムな先生でした。
(どうしてらっ しゃいますか 〜)初 めのうちは手と足がバラバラで、こりゃあ難しいな〜と、思っていたのですが、なぜか、大人達に混ざってグル−プレッスンをしているうちに、いつのまにかメキメキと上達して、ある日、私の母に、津金先生が「お嬢さんには、才能がある!!・・・」と、すご〜く誉めてくださいました。そして、ハンサムな津金先生は、ある日、転勤することになり「もし、よければ、私がもっと、育てたいので、ついてきなさい」と、母に言っていたようですが、ちょっと、遠いところでしたので、小学生の私には通えないということで、次の先生を紹介してくださいました。

次の先生は旧姓「鈴木佳世子」先生といって、国立音大在学中の、とても美人の先生でした。その当時、確かグレ−ド3級を、日本で、初めて取得した優秀な先生だったように、記憶してます。(ヤマハのエレクト−ンには、級<グレ−ド>があり、13級(LOW)から1級(HIGH)まであります。5級以上は、講師さんの資格があります。ちなみに、この私も2級もってます(笑)鈴木先生は、ご結婚して高木先生に名前が変わりましたが、この先生もとても、ナウイ(NOW)先生でありまして、ずいぶん「POP」なことを、まだ、子供だった私にも教えてくださいました。初めて「レコ−ドコピ−」というのも、この高木先生から、教えてもらいました。一番最初にコピ−した曲は、「ヴィ−ナス」という、当時流行っていた、唄ものの曲です。途中の間奏に「オルガン」ソロがあり、うわ〜カッコイイとか思いながら、初めて既成の譜面以外の曲を弾いて、喜んでいた記憶があります。私が、中学1年生の頃でした。私に「フィ−リング」などというものが、あると見抜いた高木先生は、次に、JAZZオルガニストの「ジミ−・スミス」という人のレコ−ドを紹介してくれました。

私は、父の影響でJAZZという音楽が小学生の頃から好きでした。(この頃の、愛読書は、なぜか「スウィング・ジャ−ナル」だった)父が、よく米軍の中の「PX」で買ってきてくれた、まだ日本では未発売のJAZZや、ROCKのレコ−ドを、家では良く聞いていました。特に「グレン・ミラ−」楽団や、「ディック・ハイマン」といったオルガニストも、良く聞いていましたが、その「ジミ−・スミス」を、きっかけに、私は、黒人のJAZZに、はまりました。

その後「もっともっと、広くいろんな音楽を勉強するために」ということで、高木先生が紹介してくれた、ドラマ−の「金子安延」先生に、リズムや、一般の音楽を習いに、中学3年生のときに、毎週水曜日、中学校の午後の授業を早退して(ちゃんと、担任の先生には事情を話してです。この頃から、学校の中では、私が音楽方面に進むことは有名でしたし、まわりも理解してくれてました)大人達に混じって、ヤマハ「渋谷センタ−」まで、新しいレッスンを受けに行く事になります。金子先生は、おヒゲの似合う、とてもステキな先生でした。当時「藤家虹二クインテット」を、やめた直後の、バリバリのJAZZミュ−ジシャンでした。

金子 安 延 先生には、ホント、大変お世話になり、大変かわいがってもらいました。私は、その頃は、まだ(?)まじめで、とにかく、負けず嫌いで、悔しがりで、音楽に、JAZZに燃えていましたので、金子先生に誉められたい一心で、毎週のレッスンが、楽しみでした。この頃、中学3年生から、高校の半ばくらいまでに、とにかく「ジミ−・スミス」に、はまり、アルバムは、全部もってましたし、ほとんどの曲をコピ−できてました。カセットテ−プより、オ−プンテ−プのほうが、回転速度を、遅くしてコピ−できたので、1曲10分くらいある曲のアドリブを、とにかく、テ−プレコ−ダ−のヘッドが、擦り切れるくらい(何回も取り替えましたし)この時代はJAZZの「ニュアンス」というものをコピ−したくて、飯、睡眠、学校以外は、音楽してました。フレ−ズが、キャッチ出来たとか、早いパッセ−ジが弾けた・・なんてことはどうでもよくて、この、「クキャ!!」っていう、ニュアンス、フィ−リング、かっこよさというか、譜面には到底書き表せない「カンジ」が出せない・・・。フレ−ズは、あってて、いくら指が動いても、ジミ−・スミスのようには、弾けない・・・。どうしたら、いいのかな?????・・・。そんな、中学から高校にかけての、猛烈で、少しおませな、青春時代でした。





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 高校生〜プロデビュー

私が、高校に入り、もっと、自由に音楽の勉強ができるようになり(私の母校、都立北多摩高校は、その当時でも、制服がなく私服で、私が入学する、ちょっと前には学園紛争っぽいこともあり、ラジカルな学校でした)相変わらずJAZZに、はまっている私をみかねて、ある日、私の父が、当時の立川基地の中の教会で使っていた「払い下げ」の「ハモンドオルガン」を、買ってきてくれました。メチャクチャうれしかった !! 型番は、確か「G3」とかだったような・・・?教会用のオルガンだったので、ハモンド独特の「パ−カッシブ」という、クリックは、付いてなかったのですが、でも、あの「ジミ−・スミス」に、限りなく、ちか〜い音がするのです。真空管式で、ト−ンホイルの、あの歪んだような音。しかも、「フルベ−ス」(ベ−スが、2オクタ−ブもある、あの、長いヤツ!!)もう、涙もんでした。これで、ますます、私の「音楽熱」はあがりっぱなしなのでした。で、丁度その頃、お世話になっていた、ドラムの金子安延先生に進められて、当時の優秀なエレクト−ンプレイヤ−や、選び抜かれた講師さんの方々が、アカデミックに勉強していた「演奏研究会」というところにも、レッスンを受けに行き始めました。まだ、高校1年生の私にとっては、初めのうちは、迫力ある個性の強い、年上のスッゴイ先輩達のなかに混じって、ビビリまくりながら、末席に居させてもらっている、という状態でした。当時のことで、一番印象に残っていることは、確か、私が「演研」に、入って、しばらくしたときに、アメリ カのフュ−ジョン界では、とても有名なキ−ボ−ディスト「ボビ−・ライル」さんが、来日していて、何人かが「クリニック」を受ける事になり、私もそのメンバ−に選ばれました。その時は、確か、レイ・チャ−ルズの「I CAN STOP LOVE 'IN YOU」(愛さずにはいられない)を、すご〜い、ゆっくりの、4ビ−トで弾いて(どこかの、JAZZビッグバンドがやってたのを、アイデアちょうだいしたような気がする・・・)で、すご〜く誉められたのを覚えています。とっても、嬉しくて、後の励みになりました。

今考えると、この頃の、ヤマハは(当時の東京支店)外部のミュ−ジシャンや、著名な ポピュラ−の講師の方達を呼んで、随分、外を向いた、一般の音楽業界との接点を出来るだけもとうとしたレッスンをしていたように思います。どうしても、特殊な楽器になりやすい、「オルガン」「エレクト−ン」というものを、社会的に,楽器としても、そして演奏家達も、認知してもらいたいという気持ちが強かったように思います。結果、その当時、私が一番仲良しだった「小林泉美」ちゃんは、後に「ミミ」ちゃんの愛称で、キ−ボ−ドプレイヤ−になり「フライング・ミミ・バンド」として、ア−ティストデビュ−しましたし,先輩には、スタジオミュ−ジシャンの「菊地二三子(菊地ひみこ)」さんや、カシオペアの向谷実君、同じくスタジオミュ−ジシャンの吉田弥生ちゃんなど、エレクト−ン出身のミュ−ジシャンは、沢山います。あの頃は、皆、熱かったし、今のように「シンセサイザ−」や「コンピュ−タ−」が、こんなにまだ、普及してなかったので、或る意味、ひとりで「マルチ」なことが出来ることを、必要とされていた楽器だったのです。たとえば、それが「アレンジ」だったり「音色創り・音色選び」だったり、全体のバランスを聴く「ミキシング」だったり「オ−ケストレイション」だったり、また、アンサンブルのレッスンも、かなりありましたから、リズムやビ−トの訓練や、人と、アンサンブルして合わせるという習慣など(ドラムマシ−ンも、もちろん内蔵されていましたが)あと、メロディ−と、コ−ドネ−ムだけで、即興演奏させられたり、当然アドリブや、初見演奏など、強力なライバルみ〜んなの、見てる聞いてる前でやらされますから、随分、恥もかきましが、「やるしかない」という、今思えば、現在の自分を作ってくれた、すごく意味のある大切なレッスンを、一番多感で、いろんなことを吸収できる、あの年頃に「ヤマハ」というところで、教えてもらっていたこと、そして、そんな環境を作ってくださっていたことに、今でもとても、感謝しています。

そんなこんなで、私が高校3年生の夏に、プロとしてデビュ−するチャンスがやってきます。故・八木正生さんのバンドと「倍賞千恵子」さんのコンサ−トツア−に参加させてもらう事になります。八木さんは、当時から、とても有名なジャズピアニストであり、作・編曲家でもあり、しかもバンドの皆さんはギタ−の直居隆雄さんや、ベ−ス鈴木淳さん(なつかし〜い)ドラムが石松元さんにホ−ンセクションが3人というかんじで「おっ、やったラッキ−」というかんじでルンルンでした。初めて八木さんにお会いしたときにオ−ディションを兼ねて、一曲何か弾きなさいといわれて、確か「枯葉」を、4ビ−トで弾いた覚えがあります。でも、その頃はまだ、「ジミ−・スミス」しか知らなかった私は(ジミ−・スミスは、ほとんど<ブル−ノ−トスケ−ル>だけのジャズですから)きっと「うそ」だらけの「ビ・バップ」らしきことを、八木さんの前で、よくも恥ずかしくもなく弾いたと、今思えば、顔から火が吹き出しそうな状況で(「若い」ということは、「なにも判ってない」ということは何でも、出来たけど、こわいことですね・・・笑)でも、八木さんは、とてもやさしくて、ぜんぜん偉そうにしない方でしたので、あのニコニコした、お顔で、緊張しまくって弾き終わった私に「いいんじゃない」と一言、おっしゃってくださいました。そのツア−のなかに東京一回公演の、前田憲男さんのバンドで「尾崎紀代彦」コンサ−トというのもあり、なんか、働く高校生の私は学校の出席日数も、ぎりぎりのかんじでしたが(確か卒業式も仕事で出席してない?・・・後で、友達が卒業証書持ってきてくれたよ〜な気がする・・・)こんなチャンスをいただき、トントンと仕事を始めてしまったのです。





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 エレクトーン・プレイヤー時代


プロになって、始めの2〜3年は、当時の日本楽器(YAMAHA)東京支店のデモンストレ−タ−ということで、演奏の仕事をしていましたが、すぐに、演奏グレ−ド2級の公開試験というのがあり(当時は、まだ、数人しか、1級、2級の人はいなかった)銀座のヤマハホ−ルで、観客を入れての公開演奏試験というのに、私は、チャレンジして合格。確か、受験料は、その頃で、3万円だったかな?前以て、演奏する曲を、ピックアップ提出しておいて(確か20曲)試験当日、その中から、4曲を指定されて何百人の観客の前で、演奏するという、試験としては、かなり、プレッシャ−のかかる、プロとしてお客様を意識して演奏させるような試験形態でした。その他に、即興演奏2題、一つは、その場で、ワンコ−ラスのコ−ドなしメロディ−のみの新曲を、初見で数コ−ラスに拡げ、アレンジして、一曲に仕上げるというもの。もう一つの即興は、音群即興といって、確か?5つの音符が、ポンポンと、並んでて、それを、自由に使って、メロディ−を創り、アレンジして、曲に仕上げる、というか〜なり、幅の或る、自由なというか、いろんな実力の試される、厳しいものでした。この頃も、良く練習してたなぁ〜。(涙・・・)その他にも、エレクト−ンコンク−ルというやはり、全国各地から、そして、世界大会もある、年に一度の大会にも参加したりしてました。プロとして、仕事を続けながらも、まだまだ、勉強したかったし、チャレンジしたかったので、この頃が、大人になって、一番勉強してがんばっていた時期かもしれません。

それと 並行 してお仕事もしてました。ラジオ日本(当時のラジオ関東)の生放送番組”出会いの広場”という、お昼過ぎからの番組で、毎週水曜日には、私の演奏のコ−ナ−があり、一曲演奏したりしてました。司会が、落語家の桂米助さん(現在 ヨネスケさん<隣の晩御飯>の・・・笑)で、これが、放送関係の初めてのお仕事で、十代の頃に、楽しい貴重な経験をさせてもらいました。他に も、財団法人ヤマハ音楽振興会のお仕事もしてました。これは、おもに、テレビ、ラジオ、ステ−ジの仕事が、多かったのですが、当時大変お世話になった、津田 光さん(後に中島みゆきさんのプロジェクトなど、沢山、ア−ティストを手掛けてらっしゃいます)に、初めて、テレビの中で演奏をするというお仕事をいただき ”ミッドナイトショ−”(その後”トゥナイト”という番組の枠)という、深夜番組で、週に何度か、番組のエンディングを兼ねて、私の演奏のコ−ナ−がありました。司会がオペラ歌手の<岡本喬生さん>と、三浦友和さんのおねえ様(ごめんなさい、お名前ど忘れしました)でした。NHKしか、知らなかった私は、民放のノリみたいのに、ビックリした覚えがあります。(お嬢様〜!!ウソ〜)

他には、日曜日のお昼からやっていた<牧伸二さん>(コメディアン)司会で大正製薬がスポンサ−だった、バラエティ−番組”大正テレビ寄席”(うわぁ〜、いきなり、キッツ〜!!お笑いダゼ〜)渋谷の、東急文化会舘のホ−ルで、お客様ありの、公開録画の番組でした。当時まだ、メジャ−でなかった、ツ−・ビ−ト(たけしさん)や、浅草っぽいお笑いの芸人さん達が、番組収録の前に前座として漫談を、やってらしたのを、良く覚えています。私は、番組のコ−ナ−のBGMや、CM前などを、ステ−ジの上で演奏してました。ぜんぜん、違う世界の違うタレントの或る人達を間近に見て、凄い、社会勉強したかんじでした。同じテレビ朝日系列の大阪朝日放送制作、日曜日の朝10時30分から放送(東京は)の、バラエティ−番組”ラブ・アタック!!”という、当時流行った、カップルを作る番組では、司会が<横山ノック>さん<上岡竜太郎>さん<和田アキ子>さん(・・・ん〜。濃いなぁ〜)という方々と、7年近くご一緒にお仕事していました。月に2回大阪まで通ってました。この番組で、私は、番組BGMと、第2部の、男の子4人が<かぐや姫>にアタックするために、歌を披露するコ−ナ−の伴奏をしていました。2本録りという、まとめ録りでしたので、8人分のシロウトさんの、唄う曲を、収録当日の朝に、曲目の連絡をもらって、 それから、朝日放送の資料室で、私の知らない曲を、レコ−ド探して、コピ−してという、スゴイことやってました。なにせ、シロウトさんなので、譜面はないし、それでも、曲がどうしても、解らないときは、その場で唄ってもらって、コピ−して、コ−ド付けたことも、ありました。とにかく、大変なお仕事でした。この番組には、かなり長い期間、関わってましたから、ギャグや、大阪のお笑いのノリみたいなものを、随分理解しました。一見、音楽とは、なんの関係もないように思えますが、非常に近いものがあります。アドリブや、理屈のいらないセンス、間やかけひきや反応など、似ているし、まじめで、まともなことほど、つまらないものはない・・・とか、直接的ではないけど、音楽以外のことから学ぶことが沢山ある(ただ、これは後で、解ったことですが・・・)と、思わせてくれた想い出深いお仕事でした。今の私のキャラクタ−も、多大なる影響受けてます。

その他にも、テレビ東京の朝の子供向けモ−ニング番組”おはようスタジオ”。この番組も、朝、7時20分からの生放送で、週に3日、朝、5時半起きで、番組の中には、私が1曲演奏するコ−ナ−がありました。司会は志賀ちゃんと、竹谷英子さんで、東京タワ−の中の特設スタジオでお仕事してた覚えがあります。今、覚えている、放送関係のお仕事は、このくらいですが、このほかにも、プレイヤ−としてのコンサ−トなどで、全国をまわっていました。

ただ、もちろんテレビなどの、お仕事も魅力がありましたし、楽しかったのですが、どちらかというと、本格派(?)を、目指していた私としては、少し路線が違うな・・・と、ずっと思っていて、もっと、他にやりたいことがあるのにと、思ってもいました。自分の曲を、自分でアレンジして、バンドでアンサンブルして、コンサ−トや、ライブをメインの仕事としてやりたい。昔から好きだった、ジャズや、フュ−ジョンを、本当はやりたい。こんな、悩みとの間で、財団ヤマハのプレイヤ−となりましたが、自分の思っている状況にはなかなか、なってはゆきませんでした。

そんなとき、或る人と劇的な出合をします。私が、中学生の頃から、ファンで、ジャズ雑誌「スイング・ジャ−ナル」などでも、良く知っていて、その当時は、作・編曲家としても、超売れっ子だった、ジャズピアニストの「大野雄二」さんと、六本木の「セカンドハウス」という、サンバのお店(今は、あるのかな?)で、偶然出会います。そして、その時に一緒にいたヤマハのスタッフから、大野さんを紹介されたのです・・・・・・。




 Eriko's Biography



 キーボーディスト〜アレンジャーへ

その日のことは、今でも良く覚えています。確か、私が財団ヤマハの専属プレイヤーになって、先輩達の仲間入りをするということで、ヤマハの方たちが、お披露目会のような場所を設けていただき、その二次会で六本木に繰り出し「セカンド・ハウス」にいくことになりました。そのお店にはいると、既に大野雄二氏はたくさんの方たちと飲んでいらして、もちろん私は、初対面ですが当時(というか、子供の頃から!!)私は「JAZZ狂」でしたので、JAZZ専門誌「スウイング・ジャーナル」などで、大野さんのお顔は存じてましたし(ピアノ投票部門で何位かな?とか・・笑)から、すぐにわかりました。ヤマハの方たちは、大野さんを良く知っているようで、しばらくしたら大野さんが「この人はだ〜れ?」といって、こちらの席に、わざわざ来てくださいました。もう、私は、「ナマ、大野雄二」氏が目の前にいるので、舞い上がってしまい、言いたいことが山ほど有るし、「私は、以前からこんなにあなたのファンだったのです」と、いうことをうまく伝えられなくて、いきなり、すごく生意気なことを言い出してしまったのです。「大野さんのアレンジは、たとえ3管しかホーンセクションがいなくても、まるでもっともっと沢山人数がいるように聞こえて、すばらしい。やはりそれは、センスがいいからだ・・」みたいなことを、初対面のしかも大先輩に向かって、小生意気なツッパリ娘は、言ってしまったようです(その時は、舞い上がってて、何を言ったか良く覚えてないのです・・・。が、後でスタッフに怒られました・・・笑)

ただ、その時、私は大野さんが慶応の三羽ガラス(大野雄二、佐藤允彦、鈴木”コルゲン”宏昌氏は、慶応大学を代表する三大ジャズピアニストとして、有名だった)だったことや熱海の「大野屋」という 、ローマ風呂で有名な温泉宿の息子さんだということ(笑)や、日本テレビの当時は「火曜日の女」(土曜日の女)現(火曜サスペンス劇場)などの、劇伴をずっとやってらしたこと、後、石立鉄男さんのドラ マ「みずもれ甲介」「パパと呼ばないで」そして、もちろん「ルパン3世」「人間の証明」「犬 神家の一族」etc。また、私が小学生の頃に聞いていたFMの番組でパーソナリティーを大野さんがしていたことなど、たぶん、相当のマニアじゃないと、知らないはずの情報を私は知っていたので(笑)大野さんにも、少しは私のフリーク度が、わかっていただけたかな?とも思っていました。そんな、私にとっては劇的な偶然の出会いがありました。

そして、その後ヤマハの方々の計らいで、その頃のヤマハの女性エレクトーンプレイヤー達8名ほどで、1年間、大野さんのレッスンを、月に1回受けることになります。もう、私は嬉しくて、こんな事が起きて良いのかと思うほど(神に感謝!!)偶然から始まった、大野さんとの出会いは、私にとっては願ってもない機会となりました。レッスンはオリジナルの曲を各自が、書いてきてアドバイスを頂いたり、目の前で大野さんの弾くピアノを見て、教えて貰うというより「盗む」というカンジ(そんな、もちろん、手取り足取りなんて教えてくれない・・・。こちらも一応プロでしたから・・・)でした。 そして、その1年間のレッスンの卒業コンサートということで、初めてスタジオ・ミュージシャンという方々と同じステージに立って演奏する事になり、ドラムスに「市原康」さん,ベース「ミッチー長岡」さん、ギター「直居隆雄」さん、ラテンパーカッション「ペペ・穴井」さん、そしてピアノはもちろん「大野雄二」さんに、私たちの作曲・編曲したオリジナルを、銀座「ヤクルトホール」でやることになります。とにかく、びっくりしたのは、その時初めてスタジオ・ミュージシャンという方と、一緒に演奏したわけですが、今まで、こんなにリズムがやりやすくて、気持ちよくて・・・、 とにかく全然違ってたのです。もちろん、い ままでもリズムセクションと一緒にやることはありましたが、とに かく全然違う!! リズムが「タイト」で「音色」が良くて「フレーズ」が格好良くて、落ち着いた「大人」で、etc・・・。そ〜か〜・・・・・スタジオ・ミュージシャンて〜、こんなに「うまい」んだぁ〜・・・・・と。この時の感覚が、ずっと忘れられませんでした。

また、この頃良く大野さんのバンド「You & Explosion」のライブにも、よく通ってて、六本木の「バレンタイン」という、当時は「トミー」さんというオーナー(私の事を、知っててくれてたの「いつもテレビでみてるよエリコちゃ〜ん」・・って) が、やっていたライブハウスで、その頃そのバンドは、大野さんのオリジナルをやっていて、メンバーは市原さん、ミッチーさん、ギターが、萩谷さん、ラテンが鳴島さん、SAXがジェイクさんで、トランペットが数原さん、フルートが中川昌己さんでした。この時も、まじかでミュージシャンを見て聴いて、メチャ憧れてたです。そして、そんなこんなで、大野さんのレッスンが終了する頃には、なんとなく大野さんも、私の事をわかってくださったみたいで(?・・たぶん、生意気だったから・・・笑)この頃から、大野さんのスタジオの録音の時に、遊びに行かせて貰うことが多くなりました。初めてレコーディング・スタジオというところに行ったとき、確か大野さんのCM音楽のレコーディングだったと思いますが、スタジオから流れる音を聴いて「なんて、いい音なんだろう・・・」と、まず思いました。バランスが良くて、音質が良くて、演奏が良くて、曲も良くて・・・。なんてクォリティーが高い「環境」なんだろうと、またまた生意気なこと を感じてしまったのです。そして、サブ(調 整室)に流れる、あの独特の緊張感、厳しい真剣な「プロ」達の集まる現場が、そこ にはありました。そして、緊張が解けると、いつもの冗談を言い合うミュージシャンと、業界人にもどるかんじ・・・。

こんな風に何回か、大野さんのスタジオ・ワークを見ている間に、私もこんな「いい音」のする、こんな「いい環境」の現場で、自分が作曲して、編曲した曲を「すばらいくウマイ」スタジオ・ミュージシャンの人たちに演奏して貰えて、それが形に残っていったら、どんなにいいかなぁ〜・・・と思うようになりました。(そのすばらく「いい音」を作っていた人が、当時、ほとんど大野さんの録音に関わっていたレコーディング・エンジニアの「伊予部(いよべ)富治」さんです。 その頃、伊予部さんの後ろ姿を、私はスタジオの隅からじっと見つめていましたが・・・。現在、私が、このホームページを始めようと思うきっかけになったのは、伊予部さんのHPの中の「音らんだむ・メモランダム」という、コラムを読んで感激したからです。←伊予部さんは、今も昔も、私を知らないでしょうし、このことも知らないと思います・・・)

この頃私は、もちろん簡単なヘッドアレンジや作曲も仕事としてやってはいましたが、そのレベルとなると、音楽的にも何もわかっていなかったですし、自分が、将来スタジオ・アレンジャーになれるとも、思っていませんでした。たぶん、その道のりは遠いだろうし、ましてや女の私には、夢のまた夢だったのです。そんな漠然とした思いのまま、ヤマハでの仕事は続いていました。が、そんなこんなで、大野さんが、当時ヤマハではトップ・プレイヤーだった「松田昌」さん(大野さんと松田さんとのコラボレイション・アルバム「サイレント・ダイアローグ」(キャニオン) で、大野さんはプロデュースをしていて、松 田さんとは当時とても、懇意にしてました)に、私を紹介してくれました。
松田さんは、芸大作曲科にいた方ですが、ポピュラーにも精通してらして、バンド形式のお仕事が多くて、大野さんが松田さんに「この人は(私のこと)、クラッシック出じゃないし、JAZZや黒っぽいのが得意だから、ステージは「地味」になるかもしれないけど、なかなかだよ・・」といって、私を松田さんに、推薦してくれました。それから、約6〜7年の間<ベアーズ>という松田さんのフュージョン・ジャズ系バンドでピアノを弾かせて貰うことになります。とは言う物の、ちゃんと、ピアノをまじめに勉強していない私は、いきなりバンドのリハーサルでは、チック・コリアの「スペイン」やブレッカーの「サムスカンク・ファンク」とかをやらされるので、この時期も、朝から晩 まで本気で一日中ピアノを練習していた覚えがあります。テレビなどの仕事が多かったので、少しおろそかになっていた本業(?笑)をこの時期に、再び初心に返るというか「本当は、こういうことを私はやりたかったんだと!!」本格派に戻るきっかけを作ってもらいました。大野さんのところで習ってきたJAZZサウンドやアドリブも発揮できましたし、実践を毎日やれるという、この上なく楽しい自分の好きな事を現実にやれる「バンド」という形が何年か続きます。そして、この頃から、だんだんとエレクトーンを弾く機会が減って(松田さん達が、そのように持っていってくれてたのもあります、感謝!!)私の、キーボーディストへの転換の時期になっていきます。

それと同時に、バンドの中の何曲かも、私が書かせて貰い、作曲・編曲なども多くなってきていました。ベアーズのバンドの頃は、やはり「旅」の仕事がほとんどで、メンバーと日本全国ほとんどの都市に は行きましたし、当時まだ「お嬢さん」(笑)だった私は、バンドのメンバーには、ホントたくさん、いろいろなことも教わりました。<ベアーズ>の初代のメンバーは、ドラムス「井上広基」 (元、因幡晃、ダ・カーポ、さだまさしetc...) ベースが「小平幸雄」 (元、バーニング・ウエイブ、サンバーストetc...) ギターが「唐木祐二」ラテンパーカッション「アンディ・檜山」 (元、八神純子etc...)、 その後、ドラムスが「永田敬一」 (元、スクエアetc...) ギターが「藤本たかゆき」そして、キーボードが私とリーダーの「松田昌」さん、というかんじでした。この頃は、とにかく弾きたくて弾きたくて、また、何でも、どこでも、ピアノを弾くことが楽しくてしょうがなかったので、いろんな方たちとのセッションのようなことは、たくさんしていました。SAXの「佐藤達哉」さん(この頃は、まだ早稲田の学生さんでブレッカーの曲ばかりやっていたけど、超練習スゴイ人で、夜中も公園とかで吹いてた)のバンドや、さだまさしさんのバックバンド「亀山社中」の方々のインストバンドで弾かせてもらったり、etc...

ただ、私は、ライブな場所での演奏は、好きでしたが、何年か経ってやはり、また少し何かが違うなと思い始めてもいました。「旅」が多くて、しかもステージなど、自分が人前に出て、見られて緊張することのストレスや、自分の曲ではない曲を、演奏しているときに「このアレンジ、私ならば、こうするのにな・・・」とか、「こんなヘッドアレンジじゃなくて、もっと、ちゃんとアレンジされてれば・・」とか「曲が、もっと良い曲ならば・・・、演奏も生きてくるのにナァ〜、アドリブだけ、すごくても・・・」「このコンサート全体の曲の並びや、選曲がつまらないなぁ〜・・・」というような、自分が、あるパート(部分)の一つとしての役割でいることが、なんか違うな・・・と思うようになってきたのです。

この時期に前後して「YAMAHA」を離れ、フリーのキーボーディストとして活動していた私は、ある日、以前、私のアルバムを出させて頂いた、東芝EMIの当時のプロデューサー「佐藤方紀」さんのレコーディング・スタジオに遊びに行くことになりました。丁度、佐藤さんは録音中で、私は久しぶりに東芝のスタジオのソファで、その録音を見学させて貰っていました。

そして、その時、佐藤方紀さんに、突然こう言われたのです。「ね〜、塚山さん、あなたもアレンジやってみない?生楽器を使って自分で曲を書いて、自分でアレンジして。ちょうど今、2曲ほど、作家さんが決まってない曲があるんだけど・・・どう、やってみない?」と言われました。
私は「やったぁ〜〜!」と心の中で思い、飛び上がって(心の中で・笑)喜んだことを、今でもはっきり覚えています。

こんな風に、私の作家としてのスタジオ・ワークのチャンスがやってきます。スタジオ・アレンジャーデビューの曲は、「坂田おさむ」さんと「森みゆき」さんに唄ってもらった「星の子サンバ」と言う曲と、「一城みゆ希」さんに唄って貰った「ふくろう親子の汽車ポッポ」という、子供向けのダンスの曲でした。

このレコーディングは、編成が5リズムに、ホーンセクションが7名、もう一曲は、ストリングス・セクションが4+4+2+2に、ハープまで有りという、デビューにしては豪華な編成で曲をかけることになりました。生の管楽器のセクションや、ストリングス・セクションなんて、今までアレンジしたことなんて無い私にとって、このチャンスは夢のような出来事でした。録音当日には、生まれて初めて「指揮」まですることになった私の前には、あのドラムスの「市原康」さんや、ラテン・パーカッションの「鳴島さん」、ホーン・セクションには、「数原晋」さんや「村岡建」さん、トロンボーンの「チャンピョン新井」さんもいました。まさに、ずっと思い続けていた「作家」になる夢が、このとき本当に叶ったのでした・・・・・・・。

今、この「星の子サンバ」と言う曲を聞き返してみると・・・・・
私らしい、自分の音楽の原点があるように、ウン十年も経った今でもそう感じます。
小さな頃から、積み重なったいろんな事が、この曲には集約されてるような気がします。

気が付くと、私はプレイヤーだった時代よりも、作・編曲家としてやってきた年月の方が、長くなりました。ここまで、自分の好きな職業を続けられて、感謝の気持ちでいっぱいです。

これからも、こんな風に、すべてが新鮮で、刺激的だった頃の気持ちを持ち続けて、今まで以上に自分らしいサウンドを、突き進めていきたいと思っています。

長くなってしまいましたが、私は、このBiography「自分史」を、どうしても書き残したくて、ホームページを作り始めた気がします。

最後まで、読んでくださった方、本当にどうもありがとう・・・・塚山エリコ   



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